ママさんたちとの飲み会で少子化について考えた

少子化社会といわれているが、子を持つ母のエピソードの壮絶さを聞くと、話は単に経済的な問題だけではないのだと思わされる。経済的な理由は単なる要因でしかない。

 

私には子供がいない、ましてや結婚もしていない。

そんな立場の人間が子供を持つ母親の話を聞くのは有益だろう。わけあって子を持つ母親×3+私、という飲み会が設定され(といっても母たちは子育ての合間を縫ってきたためお酒は一切のまない)、流れはおおむね子供の話になる。

 

20代で3人の子を持つAさん、3人の子供を持ち長男がダウン症のHさん、1人の子持ちで離婚してシングルマザーのSさん

 

3人の話を聞くと、子育てのすさまじさを知らされる。生まれてきた赤ん坊は自分一人で生きられない。赤ん坊は様々な要因で簡単に死ぬのである。数センチの水で溺死したり、枕が合わなくて窒息死したり、一見なんでもないことが赤ん坊にはリスクであるのだ。赤ん坊を守らなくてはならない、そんな責任感が、どんなに不眠が続いても休まる暇がなくても、子育てが単なる作業ではなく命を守り育てる動機になるのだ。3人の母親はそんないつ死ぬかわからない子供を育ててきたのである。少しほっとけばわが子が死ぬ、そんな中で自分だけ安らかに眠れる親がいるだろうか。

 

乳児突然死症候群という言葉を知った。乳児が突然死亡する原因のわからない死因の一つである。原因はいろいろあるのだろうが、私はこの症候群が、子供を育てる壮絶さを物語ってると、思ってやまない。もちろん様々な要因があるだろうが、添い寝をしてうたたねをしてたまたま寝返りをうって子供に覆いかぶさり子供が亡くなってしまう、ということも考えられる。そうやってわが子をなくした親は哀れでならない。

不意の事故である。ただし、壮絶な不眠の日々と重い責任の中でほんの数分うたたねしたためにわが子をなくしてしまった親を、我々は事故であっても人殺しと呼んでいいのだろうか。そのような人のための、慰めのようなものがあってもいいのではないか。乳児が亡くなってもうちはこの乳児突然死症候群で亡くなったといえば周りの目は憐みの目になるし、少なくとも体裁は保てる。

わが子を失ったのは事実であり、殺したのは本人であっても、その壮絶な環境で生きる子育てする人間を、我々は人殺しと呼べるのだろうか。償いは己の中で一生かけて償う、それいだけでいいのではないかと。

 

そこまで壮絶な子育てをどうしてするのか、大変大変といっているがじゃあ産まなければいいじゃないか、といいわれるだろう。ただ、みな親が同意するのが「自分の子は無条件でかわいい」という同意だった。どんな子供でさえ自分の子供はかわいいのだ。ダウン症の子を持つHさんは、はじめは困惑したが自分が育てなきゃ、と強い思いが生まれ、子供は今では18歳まで成長したそうだ。自分の子供は無条件にかわいい、という真理と、強い責任感を感じた。飲み会の席でも常に、家の旦那と連絡を取り合って子供の様子を聞いて気にかけている姿は、なるほどこれが子育てなのかと思った。

 

このように産んだ子に責任をもつ親たちの立派な話をきいて、みんながこのような人なら少子化なんて起きない、と思うのである。もちろん経済的な基盤があるから子育てができるのだが、お金の問題は本質じゃなく、子供に自分の時間をささげられるか、ということなのだ。子育て中は趣味も仕事も満足にできなくなるのは当然だ。だから、子育ては女性任せにするのはもってのほか、旦那も同じように子育てするし、社会全体でそういう人たちを支えてあげることが必要だ。

そうして子育てする人たちそれぞれに少しのゆとりが生まれれば、趣味や仕事の時間を捻出できるのではないか。それが子育てと自分の時間の両立につながる。子供を産むか自分のことを優先するか、じゃなく、子供も産むし自分のしたいこともする、という選択ができれば、産んでもいかな?とも思うのではないだろうか。